先日、ジャーナリストの山本美香さんが、シリアの紛争で銃撃によって亡くなりました。
僕は、女性である山本さんがなぜそんな危険な場所に行ったのか、不思議でなりませんでした。
でも、新聞や本を読んで、彼女が伝えようとしてたことが分かりました。それは、紛争地の苦しみは、「遠い国の出来事」ではなく、日本に住む僕たちも考えなきゃいけないことだからです。
山本さんは、紛争の現場で何が起きているかを伝えることで世界が少しでもよくなればいいと思い、報道することで社会を変えることが出来るということを信じ、報道してきたのだと思います。
僕は、この記事を読み、戦争のない世界を、今を生きる僕たちが築いていけたらいいと思います。
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小学生(11歳)「戦争のない世界 僕たち築くよ」 / 朝日新聞 (2012年8月)
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橋下さんが支持を集めているのは『決めてくれる人』だからで、その方向性は問われません。『おまかせ民主主義』の延長に橋下さんへの期待がある。『あっち側』に期待するか、批判するかの違いはあれど、決定に至るまでの調整を誰かにまかせて、客観のような、評論家のような気分でいるという点では、橋下さんを支持する人たちと社会運動はともすると同じ図式の中にはまりこみかねない。どちらも民主主義の形骸化という意味で問題です
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湯浅誠 / 朝日新聞 (2012年4月13日朝刊15面)
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私が残念に思うことは、日本に於いて、殊に根深く残っている、偏った政治性(ボス的とでもいうのでしょうか)の問題です。委員会としての意見というより、ある有力な人物を中心にした特定のグループが、直ちに公的な問題の主導権を握るといった組織に私は驚くのです。建築家レーモンド氏がかつて私にいわれた事ですが、日本ではそうした政治力を持たない芸術家は、仕事ができないのでしょうか。そしてまた政治力をもった人は才能とは関係なく仕事があてがわれているのではないでしょうか。このことは、単に私個人の問題としてではなく、もっと真剣に考えられなければならない事だと思います
「モンスター」こうして誕生
野球部員の子を持つ親たちが、大阪府の、ある私立中学の校庭の芝生を「使いにくい」と勝手にはがす騒ぎが一昨年あった。「凄いモンスターペアレントがいる」というのが一般の理解だろう。私はそうした見方では不十分だと思う。
根本的な原因の一つは、「自分たちが気にくわないモノは攻撃しても構わない」という世間の風潮だろう。今の社会では自分の好きなことだけに触れ、嫌いなことは避けて済ますことができる。特にネットが社会に浸透するにつれてその傾向が強まったように思う。
好きなことを追求することも大事だが、そればかりしていると、自分中心に考えることになり、自分と相いれない考えの人に強く当たることになってしまう。こうして、いわゆる「モンスター○○」が誕生するのだ。
確かに嫌いな人と接するのは難しい。だがそうした人々の意見に耳を傾けることで、想像もつかない新しい道が開けるかも知れない。
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高校生(17)のオピニオン / 朝日新聞 (2012年2月11日朝刊13面)
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まずは身一つで世界に飛び出して、道ばたでもいいから作品を見せること。世界の人に見てもらうだけでも緊張するし、自分にハッパをかけられる。無駄や失敗があっても、それが次に突き当たった壁を乗り越える力になるのですから
社会が豊かになって、そういうガッツがなくなるのは仕方がありません。でも、あえて困難なことに挑戦する強い意志が今こそ必要なのではないでしょうか。『海外』とか『外国』とか、もうそんな時代ではないでしょう。どの国でどういう人たちと仕事をしても土台は違わない。それなのに外に目を向けようとしなくなっている若者が増えています。外へ自力で行って、なるべくたくさんの人と競争しないと、新しい力は生まれません
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川久保玲 / 朝日新聞 (2012年1月7日朝刊12面)
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オンライン世界の先端をゆくコード――有名検索エンジンでページランクを決めるアルゴリズムやアドビのフラッシュなど――は、なぜ、ほとんどが独自開発なのだろうか。絶賛を浴びるiPhoneが生まれたのは、なぜ、世界でもっともクローズドで、専制君主的管理だとさえ言われるソフトウェア開発企業なのだろうか。経験を誠実に評価するなら、オープンアプローチによって優れたコピーは作れても、優れたオリジナルを作るのは難しいと考えるべきだろう。オープンソースというのはとんがった、反体制的な響きを持つが、その実態は保守的なのだ。
(中略)
私はオープンソースに反対しているわけではない。
(中略)
しかし、オープンソースであることをもって創造性と革新にいたるベストな道だとする教養は政治的に正しくとも事実の裏付けを持たない。
最近のデジタル文化がおかしくなった主因は、人間のネットワークを細かく切りきざみ、おかゆのようなマッシュにしてしまったからだ。その結果、ネットワークで結ばれた人間より、ネットワークという抽象概念に注意が集まるようになった。意味を持つのは人間のみであり、ネットワークそのものに意味はないというのに。
町は、そう簡単に「復興」とか「再起」とか口にできないほど無残な姿に変わり果てていた。とくに強烈なオイル臭を放つヘドロや汚泥は、必至の思いで復興へと奮起しようという被災者の気持ちを萎えさせた。
しかし、そんな時にやってきたのが見ず知らずのボランティアだった。
何気なく手伝いを頼むと、自宅になだれ込んでいた流木や瓦礫、汚泥をわずか2日で取り除いてくれた。もちろん何もないガランとした部屋だけが残ったが、ここからだったらやり直せるかもしれないと勇気が湧いてきたと語る被災者は多かった。
大げさに言えば「救世主」だったと。
(中略)
「この町に仮に10万人のボランティアがやってきたとして、彼らが一年に一回来てくれれば単純計算で10万人の観光客がこの町にやってきたことと変わりありません。その上、被災下で出会った地元の人々に出会うという目的のある『里帰り』ですから、なおさら石巻のためになると思います。他の人がどう思うかは分かりませんが、私はそういう思いで、携わってくれたボランティアを出迎えたいと思っています」
どれほど科学技術が進歩しようと、それを扱う人間の愚かしさは今も昔も変わらない。そして、そのことにだけは、人は気づかない
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高橋源一郎 / 朝日新聞 (9月29日19面)
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「フクシマ」の問題は、遠からぬ未来に、消費され忘却されるでしょう。原発報道は徐々に減っていく。脱原発の運動は互いのささいな違いから分裂し、細切れになり、力を失っていく。一方、推進側は簡単には方針を変えず、粛々と原発の再稼働を進めていく。
理想を語り、怒るだけでは、問題が解決されないまま後世に引き継がれてしまう。それは地元の人が一番よくわかっている。沖縄の基地問題を始め地方が抱えてきた問題の多くに共通することです。
アカデミズムとジャーナリズムの責任も重い。この半年、どれだけの人が自ら現場を見て、地元の人の言葉に耳を傾けようとしたか。中央の人間が一時の熱狂から醒めて去っていった後、最後まで残るのは汚染された土地と補償問題、そこに生きる人々の「日常」です。その現実を見ることにこそ、宙づりになりつつある「フクシマ」という難題への答えと希望があります。
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開沼博 / 朝日新聞 (9月13日朝刊13面)
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